クルーズの旅

014

煌く星が手に届く
お気に入りのデッキチェアにて

クルーズの旅

 もっと時間を持て余すと思っていた。しかし、今日という一日はあっという間だった。何をしたのかと問われれば大したことはしていないが、自宅で過ごす一日とは別もの。食べて歩いて、好きなときに本を読む。すれ違う人とことばを交わし、夕食は何にしようかと考える。ふと、流れる雲を眺めるだけで心が和む…。こんな時間との関わり方があるのかと、生まれて初めて気が付いた。太陽はゆっくりと水平線に近づいている。つくづく、しみじみ、船旅は気持ちいい。

 船に乗り込んで4日目。これまでは、日中は寄港地観光を楽しんで、夜は船で移動して次の寄港地へと向かうというパターンだったが、今日は終日クルージング。幸運なことに天候はすこぶる良く、大海原に白波は立っていない。なめらかな青のカーペットを滑るように進んでいるが、視界に雲がないときは船は止まっているように思える。唯一、軽く頬を撫でる風が、どの方向に進んでいるかを示してくれる。

 左舷後方にお気に入りのデッキチェアができた。デッキチェアはどれも同じで、どこに座っても景色は変わらないが、ここはデッキへの出入り口から離れているため、少しだけ人口密度が低かった。もっとも、船は南に航行しているので、夕日を堪能できる右舷側の人気が高かったということもあったかもしれない。いずれにしても、静かに過ごすには最適だった。そして、今日は食事以外のほとんどをここで過ごした。

クルーズ イメージ

 余りある時間はときとして苦痛になることがある。いくらのんびりできるといわれても、丸一日大海原で、景色がまったく変わらないなんて耐えられるのか。そんな恐怖にも似た思いはあったが、いざ来てみると、さまざまな発見の連続で退屈とは無縁の世界。中でも特筆すべきは、クルーズ独特の感覚を初めて味わったことだった。

 若い頃から旅行は好きだった。国内も海外も、団体旅行もひとり旅も経験した。ガイドブックやインターネットで情報を集め、行きたいところをチェックして、実際にそこに行ったら、自分入りと自分なしの両方の写真を撮る。戻ってからは、毎回専用のアルバムを作っては友人に自慢して、次はどこに行こうかと目論んだ。しかし、クルーズの旅は少し趣が違う。「どこに行く」が目的ではなく「船に乗る」が目的。そして、乗った瞬間からそこは数日間限定の「自宅がある街」へと変貌する。

 船は、確かに寄港地へと向かっている。しかし、どの寄港地の場面でも、寄港地がこちらへ「やってくる」感じがするのだ。列車の旅では車窓に動きがあるため、こちらが動いているという実感があるが、景色に動きがほとんどないクルーズでは、そのあまりにも広大な海の風景と静かな航行ゆえに、こちらは動いていない錯覚にとらわれる。しかも、数日間限定の「自宅がある街」には、レストランもバーも、ミュージックホールもジムもある。そんな街から外に目を向けると、ある日は島がやって来たり、ある日は都市が出現したりというわけだ。その錯覚はとても心地よく、次の朝も届けられるであろう新たな観光地の宅配に、誰もが心を踊らせる。

 さらなる発見は、読書の面白さだ。終日クルージングがあるコースを選んだので、すでに読み終えたお気に入りの本4冊と、とある書店で店員におすすめを尋ねて買った新刊小説2冊を持ち込んだ。不思議なのは、一度読んだ本でも、ここで読むと印象が違うこと。特に『パパラギ』(エーリッヒ・ショイルマン著)は、乾いた喉を潤すが如くみずみずしく感じられたのが新鮮な発見だった。この作品は、南海の酋長ツイアビが、はじめて文明社会を見て感じたことを記したもので、大してやりたくもない繰り返しのこと(職業)を持って、時間に追われて忙しく、壁一枚隔てた隣人に少しの関心も寄せないパパラギ(白人)の暮らしの一部始終を、痛烈な表現を交えて描かれている。洋上でこれに触れると、ツイアビの滑稽な発言がより耳に痛く、より腑に落ちていくのがわかる。

星空 イメージ

 夜になっても、洋上は穏やかだった。風はほとんど無く、船が進んでいるというのが分かる程度。雲が少し漂っているが、アクセントとしてはちょうどいい存在感だ。夕食を終えて、エンターテインメント会場ではなく、例のお気に入りのデッキチェアに戻ると、目線から上は無料のプラネタリウムが、下はそれを映す鏡が広がる。これで3夜連続の天体ショーだが、飽きるどころか、心を揺さぶる何かが強烈に押し寄せてきて、今夜もまた少し涙ぐんでしまう。

 星に手が届きそうというのは、恐らくこのことをいうのだろう。船上は照明が極力抑えられているため、満天の星を堪能するには極上の空間だ。星座に興味がなくてもこの光景は感動的。腰が抜けるほどの美しさに圧倒されて、しばらくは視点が定まらない。しかし、次第に星それぞれに個性があって、微妙に色合いが違うことを発見する。夏の星座で一番明るく煌く星は「ベガ」という名前だったか。確か、七夕の織姫星をそう呼んだと思う。あれも明るいし、こっちのも。いや、あれが一番青く光ってる。あれが「ベガ」に違いない。

 ナット・キング・コールの『スターダスト』が、心の中で流れ始めた。歌詞は覚えていないが、あの歌声とメロディーがはっきりと浮かぶ。今までに感じたことがない「想像すること」に潤いを覚える瞬間だ。そんな思ってもみなかった自分自身を発見することもこの船旅は与えてくれた。

 夜明けまでこの天体ショーは終わらない。しかし、今夜は早めに寝ようと思う。天気予報が正しければ、明日の夜もこのショーは開催されるはずだから。

参考までに…
『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』
エーリッヒ・ショイルマン著/岡崎照男訳/立風書房より出版。1920年にドイツの作家エーリッヒ・ショイルマンによって出版されたフィクション。日本では1982年に翻訳版が初登場した。サモアに住む酋長が、ヨーロッパを訪れた際に感じたことを語った演説集。現代にも通ずる文明への提言が、痛烈な表現で記された名著。

『スターダスト Stardust』
ホーギー・カーマイケルが1927年に作曲したジャズ・スタンダード。彼は1930年に『我が心のジョージア Georgia on My Mind』も作曲している。名曲『スターダスト』は、ビング・クロスビーやフランク・シナトラ、ルイ・アームストロングなど数えきれないほどのスターにカバーされているが、洋上の場面で浮かんだのはナット・キング・コールの甘い歌声のもの。

文:

街角10minとは… 目の前で起こる偶然は、私だけのストーリー。旅先では、ひょんな出会いが、一生の思い出に…。ふと感じる、街角の数分間。 そんな、夢にも似た物語をお送りします。旅は、いいものですね。

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