クライネ・シャイデック

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普段は歩かない人間が
ハイキングで見たもの・感じたこと

クライネ・シャイデック スイス

 空気は澄み切っている。日の差す場所では少し暑く感じるが、カラッと乾いた風が心地よく、山歩きには絶好の日和だ。雲はさほどなく、目の高さにポツリポツリ気まぐれに漂っている。谷の方を見ると、少し多めの雲が山肌にへばり付くように積もっている。雲海と言うには頼りないが、絶景にふさわしいアクセントの役割を存分に果たしていた。

 眼の前には、圧倒的な存在感のアイガーがそびえている。なるほど、あれが北壁か。あの垂直の壁を登ろうなんて、登山家という生き物はなんと命知らずか、と思いつつ、頂を目指す者で腕に覚えがあるなら、確かにここはチャレンジしたくなるな、と相反して共感も沸き起こる。山とは不可思議な気持ちにさせるところだ。日本ではたった15分程度の道のりを、時折タクシーに頼るという体たらくな選択をする人間に、2時間のハイキングをしてみようと決心させるのだから。まったく山は不可思議である。

 ベルン州の高地、という意味のベルナー・オーバーラント地方。スイスアルプスの代表的な地域で、ユングフラウ、メンヒ、アイガーの三名峰があり、雪深い冬はスキーリゾートとして、それ以外の季節は爽やかな山岳リゾートとして、世界中から愛される観光地だ。特に登山鉄道は秀逸で、標高3454mのヨーロッパ最高地点の駅ユングフラウヨッホを目指す観光客は、季節を問わず1年中やってくる。その登山鉄道の乗換駅として、標高2061mの地点にクライネ・シャイデック駅がある。森林限界を超えているため大きな木々はほとんどなく、真っ黒な岩肌のアイガー北壁を遮るものはない。

 クライネ・シャイデック駅にはそれほど多くの人がいたわけではなかった。世界に名立たる有名なハイキングコースにもかかわらず、想像していたより歩いている人が少ないことに驚く。まさに貸し切りといった風情だ。デイパックのストラップを調整して背負い直し、駅の裏側へ回って、のんびりとだが一歩一歩進み始めた。

クライネ・シャイデック スイス ユングフラウ鉄道 駅

 歩き始めてしばらくは、仲間とおしゃべりをしながら進んでいった。景色が素晴らしいとか、ユニークな形の雲が流れているとか、あの小さな花の名前はなんだろうとか。しかし20分もすると、皆ボキャブラリーが枯渇し口数が少なくなってくる。と同時に、まとまらずにそれぞれのペースで歩くようになった。なにかトピックを見つけたら集まって話し、それを共有するとまた離れる、を繰り返した。

 少し行くと、絵を描く人が数人現れた。小型のイーゼルを持ち込んでの水彩画がもっとも多く、なぜか油絵の人はひとりもいなかった。手前にいたイーゼルを使わない水彩画の男性は、手頃な高さの岩を見つけてはそこに座り、左手でスケッチブックを持ち、右手の指に挟んだ3本の筆を巧みに入れ替えながら、軽やかな筆さばきを披露している。その隣には、主に人物などを速描するときに用いるクロッキーのスタイルでこの雄大な風景を描く女性もいた。彼女は、真っ黒な岩肌をオレンジ色のパステルを用いて明るく表現している。なるほど、写実的じゃなくていいんだ。感心して見ていると、ジェスチャーで「覗いてみて」の仕草をしてきた。すぐ隣の三脚にセットしてある高価そうな双眼鏡を指している。言われるがままに覗かせてもらうと、見える見える、「窓」がくっきりと。登山家でなければ堪能できなかった景色を普通の人にも楽しんでもらおうという目的で整備された鉄道とはいえ、あの北壁の内部に登山鉄道の線路と駅(アイガーヴァント駅)を作るにとどまらず、窓まで付けてしまうとは。あっぱれ、ユングフラウ鉄道。

 全体的に下っていくコースではあるものの、多少のアップダウンはあって、寄り道した分を取り戻そうと頑張るほど息が上がる。相変わらず景色は素晴らしいが、上りに差し掛かると景色にまで気が回らない。仲間との会話も少なくなった。しかし、そこを登りきって視界が開けると、放牧真っ只中の牛たちに遭遇。ゆうに100頭を越える牛たちが、雄大な牧草地に放たれて絶景の一部になっていた。ほとんどの牛には大きなカウベルが付けられていて、首をもたげるたびにアルプスらしい音が響く。大きく深呼吸すると、疲れが吹き飛んだような気がした。

 道端近くで牧草を食んでいた2頭の牛が、我々ハイカーの一団に気付いて2歩ほど後ずさりすると、皆で “Thank You!”と声をかけながらその前を通り過ぎた。それはまるで、牛たちが道を開けてくれた親切な行動に思えて、つい顔がほころんだ。そしてまた、ゆっくりと景色は流れていく。

スケッチ 女性

 辺りは緑が濃くなり、針葉樹も増えてきた。道は少し広くなり、後方からは、時折マウンテンバイクの若者が勢いよく追い越していく。ポピーに似た花やキスゲのような黄色い花が道端を賑わすようになり、牛たちは相変わらず、ハイカーの姿を見遣っては反芻を繰り返す。前方にヴェンゲンの村が見えてきた。

 もう2時間が経とうというのか。思ったよりあっという間だったと感じる。アップダウンが連続したときは、この先どうなることかと心配したが、景色を楽しむ余裕はあったし、可憐なアルペンローズの写真もたくさん撮れた。牛には親切に道を譲ってもらったし、天候はすこぶる良く最後まで意地悪をしないでくれた。爽やかな疲労感が体を包み、達成感が心のほとんどを満たす。しかし、ほんの少しだけ「もう終わってしまうのか」という喪失感が宿るのも感じた。山とは本当に不可思議だ。

 斜面に沿ってテラス状に形成される小さな村ヴェンゲンが近づいてきた。可愛らしい家々が並んでいて、ほのぼのとした雰囲気が遠くからでもわかる。その時だ。眼下のU字型の谷から雲が流れてきて、村を一瞬にして飲み込んでしまった。そして、こちらにも向かってくる。ひんやりとした空気が体にぶつかって来た途端、視界はほぼゼロになり、辺りは夢か現実かわからないほどの真っ白な世界に包まれてしまった。音も吸い取られたような感じがした。一旦歩みを止めて、事態が変わるのを待つことにしたが、そうこうしている間に雲は流れていき、何事もなかったように美しいヴェンゲンが視界に溢れる。その時間、わずか2分ほど。特に危険は感じなかったが、「山はこういう一面もあるんだよ」と山の神に諭された気がする。振り返ると、先ほどの雲の塊が岩肌を駆け上がるように流れ去っていくのが見えた。

 普段歩くことをしない人間を自然の中に誘い出し、歩かせ、感動させ、学ばせる。山には、ただそこを歩くだけで人を根底から変えてしまう “なにか” があるようだ。しばらく、ハイキングはやめられそうにない。

インターラーケン ベルナー・オーバーラント スイス

参考までに…

ハイキングコースの一例
クライネ・シャイデック〜ヴェンゲン
所要時間:約2時間
距離:約7km
難易度:初級
標高差:786m(クライネ・シャイデック2061m、ヴェンゲン1275m)
 クライネ・シャイデックからヴェンゲンまで、線路沿いを歩くコース。序盤はユングフラウ、メンヒ、アイガーの大パノラマを堪能しながら進み、ヴェンゲンアルプ駅からは森林限界線の下へ降りてくるため、背の低い針葉樹越しの小さな村などの牧歌的風景も楽しめます。多少のアップダウンはありますが、全体的には下りを歩くコースなので、体力に自信がない方でも安心して楽しむことができます。この体験をきっかけに「山岳ハイキングにはまってしまった」人は数知れず。ハイシーズン(6〜8月)を狙ってチャレンジしてみてください。

文:

街角10minとは… 目の前で起こる偶然は、私だけのストーリー。旅先では、ひょんな出会いが、一生の思い出に…。ふと感じる、街角の数分間。 そんな、夢にも似た物語をお送りします。旅は、いいものですね。

クライネ・シャイデック(スイス)
 ヨーロッパでもっとも標高が高い鉄道駅、標高3454mのユングフラウヨッホまで登るユングフラウ鉄道の乗り換え地点です。ユングフラウ、メンヒ、アイガーの素晴らしい景色を堪能できることでも知られ、1年を通して観光客が絶えない絶景ポイントです。
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ツェルマット スイス
ツェルマット
ユングフラウ地方と肩を並べる人気観光地。車の乗り入れは禁止され、駅ではたくさんの馬車が観光客を迎えます。山肌に残る雪が光を浴びてキラキラと輝くマッターホルン。まさに絶景です。
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鉄道が整備されたスイスでも特に人気で、年間約25万人が楽しむ山岳鉄道。アルプスの名峰や美しい森と牧草地、渓谷など、まさにアルプスといった絶景を車窓から存分に楽しめます。
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