017
ストリートミュージシャンを訪れた 謎のツイードジャケットの紳士
ウィーン オーストリア
リコッタチーズがはみ出るほど詰め込まれたカンノーロを頬張る男性のもとへ、ショッピングバッグを抱えた女性が近づく。満面の笑みで出迎えた男性の右頬には少しチーズが付いているが、互いに気に留める様子はない。そこへもうひとり、足早に地下鉄駅から駆け上がってきた長身の男性が合流すると、3人はバイオリンを奏でるストリートミュージシャンを取り囲む人だかりへと進んでいった。バイオリン2人とヴィオラ、チェロのカルテット。いずれも20歳代とおぼしき若者で、服は上下とも黒で揃えている。すでに20人ほどいた聴衆は、静かな旋律の弦楽四重奏に魅了されているようだった。聞き覚えのある穏やかな調べで次の曲が始まると、立ち止まる人が急激に増える。さらに2曲を演奏し終えた頃には聴衆は50人をゆうに超え、チェロのケースにはチップが続々と投入された。 ソプラノ歌手、サラ・ブライトマンの透明な歌声で始まるあの名曲が、バイオリンでゆったりと奏でられ始めた。『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』。それまでクラシックの定番を演奏していたからなのか、少しだけギャラリーがどよめく。驚きの顔はすぐに笑顔となり、間もなくピタッと静まり返った。弦楽四重奏なので、ここに歌声はない。しかし、バイオリンの弓使いが細かになると、サラの歌声が聞こえてくるようだった。
オーストリアの首都ウィーン。ハプスブルク家の帝都であり、モーツァルトやハイドン、ベートーヴェンなどが活躍した地で、ザッハトルテが誕生した甘党なら見逃せない地だ。歩いて散策するにはちょうどいい規模の街で、「楽しむ」という誘惑がそこここに溢れている。建築が好きな人にも、音楽が好きな人にも、食べることに目がない人にも、寛ぐことに多くの時間を費やしたい人にも。訪れる人々はそれを知っているから、この街の通りを余すことなく歩いては楽しんで帰る。まさに目の前では、偶然出合った美しい調べが現在進行中だが、来るのが1時間ずれていたら、あるいは手前の交差点を逆に曲がっていたら、この偶然はなかった。そうと思うと、これは奇跡とさえ感じる。 バイオリンのひとりがメインフレーズを弾き終えると、同じメロディラインをヴィオラが弾き始めた。まるでテノール歌手、アンドレア・ボチェッリのパートが始まったかのようで、聴衆のボルテージは一気に高まる。ヴィオラがメインフレーズを弾き終えると、再びバイオリンがヴィオラのパートに重なり終盤へ。チェロがボレロ調のベースラインの音量を上げたのを機に、4人の動きはダイナミックになり、そして、鮮やかに演奏を終えた。割れんばかりの喝采に包まれる。熱いものが込み上げる感覚に襲われる。そして、我に返った人から順に、チェロケースにチップを入れていった。 しばらく経っても『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』の旋律が耳から離れない。サラがさり気なく盲目のボチェッリの手を取り、雄大なクライマックスへと向かうシーンも脳裏に浮かんだ。ウィーンのストリートミュージシャンは質が高いと聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。ケースには2ユーロコインを入れたが、今になって申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ん〜、紙幣にすればよかった…。
あちこちの素敵な演奏に触発されてか、歩行者天国を行き来する人のテンションは、高止まりの様相を呈していた。ウィーンのストリートミュージシャンは、申請許可が降りた日しか演奏できないためか、総じて質が高い。警察官から許可証の提示を求められ、渋々退去を余儀なくされた輩もいたが、通行人が数人しか立ち止まらない地味なギターの弾き語りでさえ、下手とはかけ離れた良質な演奏をしていた。この他にも、水が入ったワイングラスの縁を指でなぞって演奏するグラスハープのお兄さんは、若い女性数人を虜にしていたし、アジア系の女性がひとりで弾くピアノ演奏では、途中でオレンジ色のバックパックを背負った男性旅行者が飛び入り参加で連弾を披露し、圧巻のステージに変貌させていた。“ほんの少ししか動かない” がテーマらしきパントマイマーと横にいるアコーディオン奏者は、どうやらセットでのパフォーマーのようで、アコーディオン奏者がパントマイマーの目や鼻の動きに合わせて滑稽な演奏をしては、子供たちの笑いを誘っていた。 少し歩いて、聖ペーター教会を通ってグラーベン通りに戻ると、また新たな人だかりがあった。マリンバとビブラフォンの男性二人組の演奏だ。曲目は多岐にわたっていて、シンディ・ローパーの『タイム・アフター・タイム』やミルト・ジャクソンの『バグス・グルーヴ』、映画『ハリーポッター』の主題曲にいたるまで、それぞれが4本のマレットを巧みに操り、見事なアンサンブルを披露していた。 オリジナル曲だろうか、聞いたことないの曲が、マリンバの陽気なソロから始まった。ラテン音楽のような激しいフレーズは、多くの人の足を止めるのに十分な迫力だ。急にテンポが変わった。朝もやの中を散歩しているかのようなゆったり感。マリンバが優しく促すと、ビブラフォンが呼応する。再びテンポが変わった。今度は雷雲が立ち込めたような怪しい雰囲気。転調を繰り返すことによって、これから何かが起きそうな気配が漂う。まったく別モノになったような大胆な曲構成には驚かされっぱなしだ。またテンポが変わった。今度は普通に歩くようなスピード。そして、最初の陽気なフレーズへと戻っていきフィナーレへ。まるでオペラの大作を観たような壮大なスケールの曲は、なんと7分にも及んだ。 指笛が混じった大歓声の中、小洒落たツイードジャケットの紳士が、マリンバとビブラフォンの二人のもとに近づいていき名刺のようなものを手渡した。二人はそれを見るなり硬直し、ペコペコと何度も頭を垂れる。紳士はニコニコ顔で握手を求め、二人はそれに答えた。紳士が離れたあと、二人はサッカー選手がゴールを決めたあとのように両手を高々と掲げて雄叫びを上げ、そして強く抱き合った。さらに、「何が起こったの?」と近づいてきた数人にも名刺を見せ、何度も抱き合い、何度も握手をした。紳士は有名な音楽プロデューサーだったのだろうか。そう勝手な想像をしてみると辻褄が合った。デビューのきっかけが舞い込んだのかもしれない。詳細は不明だが、いずれにしても夢のようなエキサイティングな瞬間であり、それにふさわしい演奏だった。 小春日和の陽気も相まって、歩行者天国はさらにごった返してきた。この街は、偶然に任せて予備知識ゼロでも十分に楽しめるが、相応の情報を携えて乗り込むと、想像を超える楽しさが味わえる。歴史も音楽も、そしてドラマのような瞬間も。
参考までに… ウィーンの1区から6区の地域内で、楽器の演奏やパフォーマンスなどで公共の場を利用する場合は、「ストリートアート公演場所カード Platzkarte für Straßenkunstdarbietungen」という許可証の取得が必要です(前月の15日までに申請)。費用は1人あたり6.54ユーロ。決して高くはありませんが、この仕組みがあることによって、ストリートミュージシャンのクオリティーが保たれているような感じがします。冬は寒さが厳しいので、ストリートミュージシャンは少なくなってしまいます。観るならやはり春から秋がおすすめ。 『Time To Say Goodbye タイム・トゥ・セイ・グッバイ』 イタリア人テノール歌手アンドレア・ボチェッリの代表曲。1996年には、イギリス人ソプラノ歌手のサラ・ブライトマンとのデュエットで世界的なヒットを記録しました。 フランチェスコ・サルトーリ作曲、ルーチョ・クアラントット作詞。
街角10minとは… 目の前で起こる偶然は、私だけのストーリー。旅先では、ひょんな出会いが、一生の思い出に…。ふと感じる、街角の数分間。 そんな、夢にも似た物語をお送りします。旅は、いいものですね。
- ウィーン
- ウィーンは、ツアーでも十分な自由行動時間が設けられていることが多いので、街を散策する時間に当てたいところ。ストリートミュージシャンのみならず、小さな教会などでも演奏会が行われているので、前もって計画を立てなくても「偶然」がたくさんあります。音楽好きには堪らない街です。
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